愛と性欲

今朝の夢見

僕は女で私は男だった。お互いセックスしてた。

女であることとはどういうことだろう、男であることとはどういうことだろう?

 

女、男っていうのは二次性質であって、実在の本質ではないと思う。

『人間』という存在に便宜上つけられただけのノミナルな概念だと思う。

この性別っていうクソみたいな概念のせいで色々悩んでいる。

 

自分の中にアニマ(女性像)・アニムス(男性像)が存在するのは自覚している。

(これも自覚できるだけ一種の精神分裂なのかな?)

ユングは青年はそのアニマ、アニムスを抑圧することで性別を確定すると言っていたけど、僕にはそれが出来ていない。自我領域に存在する2つのエレメントとして『分析する私』が分析してしまう。だから一人称もぐるぐる混乱するし、自分が男性か女性かをはっきり述べることは出来ない。

性差、そして性欲。不可避なる欲望。

 

Q. 誠実な愛とは欲望から開放された愛なのだろうか?

未分析のモヤッとした苦しみから起因する、自己顕示欲や承認欲を無限に求めるような神経症的な欲望はもちろん誠実とは程遠いと思う。問題は純粋な性欲、これは誠実な愛と相反するだろうか?

セックスを嫌うひとは結構多い。セックスの下手さで嫌われやしないかと心配する人、過去の恋愛にトラウマのあるひと、自身/相手の欲望と相まみえるのが嫌なひと、理由は人それぞれだけど。

この点においてキリスト教アガペー(神の愛)とエロース(性の愛)を区別する。

「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。」

(コリント第一 13:4‐7)

要するにアガペーは無限の存在である神だけが行える無償・無限のトップダウン型の愛であり、エロースは憧れ、欲望のような見返りを求める愛だと。

 

で、結局どうすればいいのかということだけど、導き出されるのは2つの選択肢

1,神にはなれないということを受け入れて生きていく

無償の愛は無理だけれど、自分の見返りや欲望にある程度客観的に生きていくこと。

自分のあり方は変えないけれど、そこは諦める(Surrender)。

2,生命、欲望(リビドー)を捨て去って、無限の愛を体現すること。

それはつまり神になるということ。論理法則を超えて空の先に行くということ。

意味するところは死しかないが。

 

あしたは相互理解について書こうかな

エバーグリーン、浮かんだ言葉

1.

優しさ、誠実さ、信念。愛。

誠実でありたい、全てにおいて。

1.1

誠実であるということは真面目であるということ。

自分より相手のことを考え、無償の愛を与えること。

誠実な優しさっていうのは見返りを求めてはいけない。

1.2

神様になりたい。

それは全知全能や世界征服とかの話じゃなくて、見返りを求めずに世界を愛したいから。

1.2.1

どうしても優しさの努力の中には「相手の笑顔」「ありがとうの言葉」のような見返りを求めてしまう。それは無償の愛とは言えないと思う。だけど私は神さまにはなり切れないから、どうしても感謝や見返りを求めてしまう。自己嫌悪のひとつ。

1.3

どうしても優しさや愛には「優しくしている、愛している自分」に対するナルシシズムが現れてしまう。自分の存在意義が見いだせないから、利他的に生きる自分に対しての自己陶酔で心を酔わす。

1.3.1

自分を愛する方法を教わらなかった私たちはどうやって他人を愛するだろう。

自分すら満たせていない未完成な愛では他人に何を与えられるだろう。

自己理解。他者理解。理解とはなんだろう。愛するということとは。

1.4

愛という論理の限界の先にあるものを論じるにあたって、「The Art of Loving」は、本嫌いな私が目を見張るほど素晴らしい本だ。僕が考えていることと類似しているところが何点かあるので紹介する。

1.4.1

「愛しあっている」二人が、ほかの人には眼もくれないということはよくある。じつは、彼らの愛は利己主義が二倍になったものにすぎない。

彼らはたがいに相手に自分を同一化し、一人を二人に増やすことによって孤立の問題を解決しようとする。彼らが味わう一体感は錯覚にすぎないのだ。

一般的な”真実の愛”というのはロミオとジュリエットのような、お互いをお互いの全てとして、完全に合一化し他の世界には目を向けないまま愛し合う、というものだが。

しかしそれを単なるエゴイズムの拡大でしかないと批判した。

一人の人を本当に愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

その人に対する真実の愛とは、相手を通して世界のすべてを愛するということ。世界のすべてというのは、すなわち自分自身であるゆえに、それは自分自身を愛するということだと論じる。

たしかに、僕の好きな人も嫌いな人も、パソコンもペットの動物もすべてが『私の世界』にあらわれている現象にすぎない。

1.4.1.1

ただコレに関してはどっちが正解なのかわからない。

『相手もまた”私の世界”の中にいる現象にすぎないから、それを愛するということは”私の世界”を愛するということと同義だ』という命題と

『相手は”私の世界”からは独立である。完全に別の世界を持っているのだから、相手を愛するということは”相手の世界”だけを愛することだ』という命題はどちらも説得力がある。

前者ならば相手を誠実に愛するということは、自分を愛せていなければならないが。

後者ならば自分を愛せなくともお互いが完全に相手の世界を愛せれば真実の愛となる。

いずれにせよどちらもハードルが高いのだが。

1.4.2

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解に根ざしている。

もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

人を、世界を愛したい。でもありのままの私を愛せない。だから優しく神様の真似事をする。この世で絶対的に存在価値が認められているのは神様だけだから、

結局はそこなんだろう。自分を愛してほしい。自分にも、他人にも。

だから私には恋愛ができない。もちろんいくらでも虚飾で薄い恋愛の真似事なんか幾らでもできるし、そんな経験だってしてきた。

「愛してる」と言えないのだ。自分を愛せないから。

 

1.5

神経症的な愛を生む基本的条件は、「恋人たち」の一方あるいは両方が、親の像への執着を捨てきれず、かつて父親あるいは母親に向けていた感情・期待・恐れを、大人になってから、愛する人のうえに転移することである。

もちろん人間の人格形成を親のせいにするつもりはない。けれども僕の身の回りにはあまり親との人間関係がうまく行っていない人が多い。

親との愛情に問題がある人間は「愛」に対してやはりというか普通の人とは態度が違う。

ひたすら虚飾でも愛のレプリカを求め続けるタイプ。セックス依存。

愛の存在に否定的になり、自分も世界も他人も愛せなくなる。神経症

そして愛について徹底的に考えて、疲れ果ててしまうタイプ。哲学者。

フロイト流の精神分析がただしいかはさておき、この「転移」という問題は非常に大切だと思う。親や先生などに抱いていた、あるいは抱かされていた気持ちを恋人に無意識に刷り込んでしまう……

誠実な愛とは程遠い。

1.6

ただ、どんな本と向き合っても、どんなにYoutubeで動画を見ても、どんなに心理学の勉強をしても人の心はわからないし、ましてや自分を愛することなどできそうにもない。だから人と向き合わないとどうしてもその解決の糸口は見つからない。

同時に人を傷つけるのがすごく怖い。傷つくのが怖いのももちろんだが、それ以上に傷つけてしまった跡を見てしまうのが。乗り越えなければいけない壁。

誠実であるということ、をもう一度整理する。

誠実な愛とは

:親や先生などに対する情念を転移していないこと。

:客観的であること。愛する自分を愛するというナルシシズムの存在に気付くこと。

:信念を持つということ。信念に対して嘘をつかないこと。

ああ、信念についてまだ何も書いていなかった。

2.1

信念。

信念というのはその人を信じるにあたって絶対的に必須のものだと思う。

少なくとも僕は信念のない人間を好きにはならないし、友達にもなれない。

(僕みたいな考えを持つ人にとって友達っていうのはすっごくハードルが高い。)

信じるということ。

言い換えれば、その人の生きる信念に対しての信頼、だろうか。

『愛していると言えない』につづいて『信じることが出来ない』という大病が、ここにはある。

残念だが95%の人は信念がない。

信念を持っている、と声高に主張する人間に限って、その信念は実は簡単に揺らぐし、そもそも『お金持ちになる』『素敵なお嫁さんになる』程度のレベルの事が多い。

信念は目標や夢じゃない。

信念というのはその条項に従って絶対に揺らがず、それに反するくらいなら死を選ぶといえるまでの理想主義者にだけ持てる、強力な意志の炎だ。

僕の信念はうまく言語化できないが、あえていうなら『誠実』『疑いつづけること』だろうか。

2.2

僕は信じることが出来ない。他人も、ものも、目の前の現象も、神も、全てだ。

仮に『これは絶対に存在するだろう』というものを想像してみてみよう

目の前にあるスマートフォンやパソコンは本当に実在するか?

目に映る現象は全て網膜に映る情報にすぎない

脳の働きもまた電子パルス信号にすぎない

哲学的ゾンビ中国語の部屋のような思考実験が示すとおり、他人の心があるかどうかはわからない。

ましてや神は言わずもがな。

何百年も前にデカルトが言ったとおり、自分が絶対的に実在を肯定できるのは『自分』だけなのだ

一度世界を方法的懐疑の目線で見てしまうと、実は永遠の暗闇に『自分』がひとり立っていることに気づくだろう。

2.2.1

ものごと(現象)を信じるということは、(哲学用語だが)そのものごと(現象)それ自体がイデア的実在であるということを信じる、ということだ。

もちろんそんなものは理性的に考えてありえない。『コレは本当にコレだろうか』という根源的な疑いが排除されるものは、それこそコギトしかありえない。

だから信じる、というのはひたすら疑い続けるということなのだ。

ただし誤解しないでほしいのは、この『疑い』というのは否定的な疑いではないという点だ

2.3

相手を盲信する(全肯定する)ということは誠実であることとは違う。違うどころか真逆かもしれない。

その相手を愛し、信じているならばこそ必ずある程度客観的にならなきゃいけない。

そう、疑いの対象は常に自分だ。

『自分は本当に誠実に愛せているか』ということを永遠に疑い続けること。それが真の誠実の要素だと考える。

もちろん相手を愛するということは相手を全肯定することじゃない。対立することだってかならずある。それはとても健全(Sound)。

誠実であることはとっても、とっても難しく、また厳しい。

常に自らを客観視し(できるかどうかはともかく)、信念と照らし合わせ生きるのはやがて精神の分裂を招く。

『行動する自分』と『評価する自分』が別れてしまうから。

客観的であることによる精神分裂。

3.1

往々にして私たちみたいな”マジメな”考えを持つ人間はこうした”誠実”への理想と現実のギャップに苦しむ。

95%のひとは信念なんか持っちゃいない。95%のひとがつくりあげるシャカイは信念がない、あるいは『金を稼ぎ、学歴を手に入れ、地位、富、名声、セックス、かりそめ承認欲』みたいなくっだら無い信念で満ち満ちている。

だから『外行きの自分』ペルソナを新たに作り上げ、社会生活を営む間はその外行きの自分に色々任せ、真の自分と切り離してうまくやっていくことを覚える。鍛錬を詰めば『外行きペルソナ』が自動的に応答して社会生活を無思考でやっていくこともできる。

問題はそこでまた分裂が起きることだろう。

『外行きの自分』『行動する自分』『評価する自分』の3つの魂がここに成立する。

客観的であることはこうした人格分裂による弊害を引き起こす。難しい。

 

4.1

言葉を知るということ。ボキャブラリ。

5.1

相手を理解することということ。

 

 

 

 

 

 

7/26

雨上がりの午後

無音に小田急線と遠い蝉の声

スマホゲームの電子音

どんよりとした低気圧で身体が重い

激情も失望もいまいち心に響かない

摩耗した機械が動きにくくなるように

摩耗した精神もまた錆び付いていく

機械と私は何が違うのだろう


煙草の煙、幽かなバニラの香り

こんな日は何の音楽をかけようか

すり減った心を少しでも癒せるだろうか

そう呟いて

孤独な無音から逃げるように音楽をかけた


亡き王女の為のパヴァーヌ


7/21

‪夏の朝靄‬

‪滲んだ青が架かる午前5時‬

‪煙草の紫煙がすぅと目の端に立ち消え‬

‪ビルの屋上、景色は茫漠と都会の海‬

‪自由落下する灰色、風に煽られて溶ける‬

‪青白む月は落ち、やがて茜さす頃‬

‪くすんだ赤と青の色彩が世界に満ちる‬

‪煙草の紫煙は空の紫と混じり合い‬

ゆらりと消えた

夏 6/5

今年の夏は夏らしい夏になってほしいなぁ
でもそれは普通の夏でいい
蒸し暑くて過ごしにくい暑さ
遠くから聞こえる喧騒
夕方から上がる花火をベランダから遠目に見て
冷えたアイスコーヒーと煙草と一緒に

日に日に伝えたいことが薄れていくから
何を書けばいいのかも分からなくなってく
そもそも誰に伝えたいとかも分かんない

今日はミュシャ展に行ってきたよ
芸術にそこまで詳しいわけじゃないけど、力強い生の叫びとかを感じた
自分にも言葉以外の表現方法があれば、より生に対して誠実になれるのに
まあいいや

自殺する人の見る景色は

‪自殺する人の見る世界は、終わりの風景 

高く積み上げた思考の梯子を登り

屋上からの自由落下に身をまかせるときに その時私はたしかに色付いた素晴らしき世界を見る

美しく映えるほんとうの幸福を

重力加速度は9.8m/sをはるかに越え

私の主観は光の速さに近付いていく

加速する私が最期に漏らす感嘆

言葉の終わり

そのコトバは世界に満たされていき

残響として続いていく


6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け ―― その上にたち ―― それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

論理哲学論考/ウィトゲンシュタイン

 

6/1

冷たい夜に別れを告げて

次は何をすればいいだろう


ひとつひとつを大切に終わらせていく

積み重ねたものが生きた証ならね


人の望みも喜びも

すべてを受け入れて

主のもとに旅立つ日はいつ来るだろう

案外明日だったりするかも


死について考えるたびに怖くなるけど

それだけ生に感謝できるから