罰と許し、無意味と価値

いろんなことを何もわかっていない

ひとは私を知的で物知りと呼ぶけど

本当のことは何も知らない

それが今の罰につながっている


存在、あるいは行動

全てに対する罪悪感

あらゆる全てが責任

感受性の極度な緊張

行きすぎた感性は害


知性、憧れ、狂信、現実、救済。

単語を並べてもひとつも自分ではない

本物と偽物の違いを知りたい


空虚なる全て。

意味も価値も目的もナンセンス。

(なぜなら主観的ゆえに。)

ただ義務と責任は幾分か客観的なもの


わたしはいつまで客観に縋っているのか?

ただ自分の自己不全さと、承認されない不条理/憤りに対して、

空虚や虚無と言い訳をしているだけ。


許しは最大の罰である。

許された罪は、永遠の十字架


切り離してほしい。


この世界に確かなものはひとつもない。

真実は蓋然性に過ぎない、因果もまた斉一性でしかない。

強い信念も時とともに薄れ、価値観もまた移り変わる。

あれだけ強く感じる痛みや倦怠感も、傷が癒えれば収まっていく。

思い出はいずれ消えてしまい、新たな「うつろ」が上書きされる。

 

偽物と本物の違いもまた、存在しない。

偽物のブランド品を胸を張って身につける人間を軽蔑するけれど、

自分の記憶も誇りも発言も、偽物と本物の区別はついていない。

どちらかといえば、美しいまがい物のほうが、埃を被った本物より魅力的だ。

 

もったりと重いようで薄い、ファントム・グレーの「うつろ」が

ひとつ、またひとつと自分の感情や信念に覆い被さるような、

言い知れぬ不快感をおぼえながら、この四年間を過ごしてきた。

 

大切な友人が言っていた、ピンク色や紫がかった薄靄は確かに存在しない。

だが、それがかかっていた生活もまた、確かなものでもない。

「かかっている」と認識するわたしもまた、確かとは言えない。

フェイクを真実に変える情熱を(あるいは盲信を)「夢」と呼ぶのなら、

わたしはその夢を持たない。

こうしてまたひとつ、疑いという「うつろ」で上書きされてしまう。

 

疑い。

わたしは、全てにおいて疑ってかかる人間だ。

疑いとはひとつの美徳だと思っていた。

証拠不十分なものを盲信せず、理由と根拠を徹底的に調べ上げ、

不明なものは判断保留にするか、「無意味」と切り捨てていた。

 

「実は、これも無意味なことなのか」と諦めてしまうとき、

自分の心に「うつろ」がひとつ浮かんで、大切な場所を占めてしまう。

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普通の人々がいそしむようなタイセツな心の場所。

そこには大きな水泡のような「うつろ」が占めている。

浮かんだ「うつろ」は少しづつ大きくなって、癌のように浸潤していく。

 

癌は悪性新生物って別名がある。

この「うつろ」という癌が広がれば広がるほど、

わたしの心に新たな人格が割れ砕けて生まれ落ちる。

 

それでもまだ生き続ける理由はなんだろう。

燻ってはいるが、まだ暗い情熱の蝋燭は消えていない。

自分を構成するいかなるものをも知らなければ、という根源的な探究心だろうか。

自分が生まれたレゾン・デートルを知らなければ、という実存的な探究心だろうか。

同じ苦しみを抱える人間と出会うためだろうか。

茫漠たる砂漠を歩くための。

 

まだ諦めはしない。

もう少し頑張れるはずだ。

これを読む誰かにも

その心のともしびをもう少しだけ、信じて欲しい。

 

 

 

ピアノの音

ピアノの音が好き

ピアノの音はとても美しく物悲しい

誰も訪れないウェブサイトを尋ねる時のように

人は孤独から逃げられないことをはっきりとわからせてくれる

 

自分の感覚も肉体もないまま、ただ意識だけが暗い棺桶のなかに閉じ込められている

ふと、人間の本質とはそういうものだと思ったりする

そうした棺桶がきっと人の数だけあって

でもその闇の中では生きていけないから、人は自分に麻酔をかける

夢を見る

 

人と繋がれること

愛し、愛されているということ

社会的な成功を手に入れること

前に向かって歩いていること

自分の存在意義があるということ

自分が不幸だということ

自分が幸福だということ

 

それら全ては永遠の孤独の中に眠る”私”の思い込みだろう

アドラーが言うように、自己卑下や猜疑心も思い込みというのなら

こうしたプラスの感情も感覚もまた思い込みでしかないのだろう

 

虚無主義はどうしても乗り越えられない

望みも期待も罪である

何を望んでも、期待をしてもそれは報われない

世界は自分の世界であり、人は人の世界を生きているので

世界にも他人にも自分の理想像を押し付けているだけ

 

でも

もしもその棺の中に、優しいピアノの音が流れていればなぁと

また期待してしまうし望んでしまう

結局は諦めきれないのだろう

ほとんどを切り離したと思っていても

キャンバスに画用紙を貼り付けているピンを外せない

 

 

なりたい

「飄々とした」とか

「超然とした」みたいな言葉が好き。

なにも固執せず、誇らず、怒らない

落胆したり、取り乱したりしない

目に見えることよりも

目に見えないことを求めていたい。

本物を見極める審美眼。

それを支えるための知識も。

惑わされないための思考もほしい。

 

諦めたように憂う顔をする自分

アンテナ張るのに疲れてしまったけど

それでも目を開いて生きていきたい

フクロウのように俯瞰する羽根を持って

夕暮れの空を飛ぶように

 

でも自嘲気味に笑う人になりたいな

だって淡い希望は消えていないから

まだ燃え尽きていない火があるなら

笑いながら「もう一度」と言おう

 

生きる上で引っかかる哲学的5つの壁

自分なりに生きるうえでどうしても超えられない5つの問題をまとめたので書く

 

  1. 懐疑論

    「この世界は実は全部ウソだったり妄想だったりするかもしれない」という疑問を懐疑論といって、この世に絶対に正しいものということが無い(のかもしれない)ということを表している。水槽の中の脳というお話だったり(ググってくれ)、マトリックストータル・リコールみたいな映画だったりでよく言及されている。

    自分が見ているリンゴが本当にリンゴかどうかはわからない(実は脳を乗っ取られてブドウがリンゴに見えているかもしれない)し、そもそも「自分が見ている」という事実すら「自分が見ているという錯覚をしている」可能性もある。

    言葉も同じことが言えてしまう。「元アメリカ大統領バラクオバマは男である」という文章の正しさは、実際にバラク・オバマという人が男であるかどうか確かめればいい。つまり「AはBである」という言葉が正しいか間違いかは、実際の世界において”AがBであること”と照らし合わせればわかる。
    だがしかし、そもそも照らし合わせる行為が”人”にしか(もっと言えば自分にしか)できないのだから、言葉の正しさの判断は結局さっき言ったみたいな「違うかもしれない」懐疑に陥ってしまう。

    (哲学的な話としては「妻は既婚者である」「馬は動物である」みたいなAがAであるためにBの性質を持っていなければならない言葉を「分析的命題」として疑いようのない事実だと、論理実証主義と呼ばれる人たちは主張したが、これは③に大きく関わるクワインという哲学者が『経験主義の2つのドグマ』という本で明確に否定している。)

    結局のところこの懐疑論を唯一超えられるのは「我思う、故に我あり」という古典的な文句しかない。これは中世の哲学者デカルトの言葉で、「これは本当に存在するだろーか?」と疑っている『疑っている自分の意識』は疑いなく存在するということだ。

    だがこの問題はそのまま問題2に直結してしまう。

     

  2. 独我論

    「この世界に人間は私だけしか居ないんじゃないか?」という疑問のことを独我論と呼ぶ。懐疑論を突き詰めた結果のひとつだといえる。

    独我論には大きく分けて3つの種類がある。

     ひとつは「世界には私しか居ない」という『存在論独我論』であり、これが最も一般的な独我論だ。”他人の心”が存在するかわからないという現代の認知科学における大きな壁「意識のハード・プロブレム」(これもググってください)に大きく関係していて、私は心を持っているが、コンピュータは人間の心を持たない。しかしそれならなぜ他人は心を持っていると言えるのか?という疑問が根底にある。

    このタイプの独我論は「世界」と「私」を区別しているところが特徴だ。つまり、もともと客観的実在として世界があり、その中に私が居て、他の「NPC」か「他人」かわからない人々が暮らしているという考え方だ。MMOのオンラインゲームに近い。

     ふたつは「私が認識するものが世界である」という『認識論的独我論』であり、やや特殊な独我論である。簡単に言えば『私が認識しているものだけが世界であって、知らないものや他人の認識など、私が認識しえないものは世界ではない』という考え方だ。

    このタイプの独我論存在論独我論とは対照的に「世界」の実在を否定する。というより「世界」それ自体が「私の認識」なのであり、「私の認識」がそのまま実在の「世界」なのである。

    (「認識」を「私」というシステムが処理をする、という意味としての「私(という統覚)」は存在しないのだ。)

    「世界は私の世界である」論理哲学論考 5.641

     みっつめは「私的言語的独我論」なのだが、これを説明するのは哲学的に非常に踏み込んだ話になるので簡単にだけ書こう。

    「現象がクオリアとして質感を持って現れるためにそのクオリアが私的言語とならねばならず、その私的言語性こそが世界性を担保するものであり、客観的世界も思考する私の意識もどうでもいい」という考え方だ。

    なんのこっちゃ。

  3. 決定不全性テーゼ

    「観察やデータによっては、そこから帰納できる対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない」ということを決定不全性テーゼと呼ぶ。(別名デュエムクワインテーゼとも言う。カッコイイし日常生活で使いたい)

    一見なんのこっちゃと思うが、例えば月が空で登り沈み、満ち欠けしたりすることの観察から「月は地球のまわりを回っている」「地球は月のまわりを回っている」という2つの理論が考え出せる。

    月が地球の衛星だっていうことを知っている私たちは「なんでだよ、後者は明らかに間違いだ」って言えるが、なぜ言えるのだろうか。

    後者が間違いであるデータを提示したにしても、「地球が月の衛星である理論」を頑なに信じる人は「いや、こっちの理論のここが間違ってただけで地球が月の衛星である事実は変わらない!」と言うだろう。

    逆にも同じことが言えてしまい、我々が仮に「月が地球の衛星である理論」の間違いの証拠を提示されても、「いや、それはお前の観察が間違ってるだけ」「うちらのここが間違ってただけで、月が地球の衛星である事実は変わらない!」と主張する。

    結果として1つの現象から2つの理論が導き出せてしまい、その「正しさ」は「どちらの理論を信奉している人が多いか」で決まってしまう。これの一番メジャーな例が地球温暖化についての議論だろう。

  4. 規則のパラドックス
    「いかなる規則にも、その規則を正しく実行する、ということができない」ということを規則のパラドックスと言う。
    我々は常になにかのルールに従って生きているはずであるのに、実は正しくルールに従うことが原理的に出来ないということとはどういうことか。
    仮に数学の知識がない小さい子に、足し算を教えるとする。
    まず1+1=2,2+2=4、3+3=6、4+4=8のように基礎的な計算を見せて、「じゃあ、今教えた通りにやってごらん」と言う。その子は「5+5=10,4+3=7,6+9=15」と規則通りに計算をしていくが、「じゃあ26+12は?」と聞いたときに「26+12=5」と答えてしまう。
    先生は「違うよ、どうしてそうなるの?」と聞くが、彼は自分が間違っていることをわからない。なぜなら彼が教わった足し算から導いたルールは一般的な足し算ではなく、「x+y≦37のときは一般的足し算を、x+y>37のときは無条件で答えが5になる」という独自の謎足し算だったのだ。
    何度教えても彼はその独自の謎足し算が当たり前(哲学用語だと概念枠を持っているという)だと感じているため、そこには相互理解が一切生まれない。
    一般化すると「与えられた規則Aに対して、一義的にその正しさを保証するような行為A'(ルールに沿った行為)は不可能である」ということだ。
    つまりルールに従うということは、二者間の相互交流のなかで”おたがいがルールに則っている”という信念のもと実践を積み重ねていくだけ(解釈に次ぐ解釈)にすぎない。
    「我々のパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから。(中略)ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行なっているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、我々を少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、我々は、規則の解釈ではなく、応用の場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現われてくるような、規則の把握のしかたが存在することを示すのである。」(哲学探究、Pp.162-163)
  5. 相対主義
    「意味や価値というのは各個人の価値観によって異なるので、唯一絶対の価値や意味なんてものは存在しない」という考えを相対主義という。
    もっと簡単に言えば「絶対的に正しいことなんて存在しない」ということ。
    このトピックはメチャクチャ長くなるので別記事にします。
    問題提起だけしておくと「じゃあ相対主義は絶対に正しいか?」という疑問。

 

 

愛と性欲

今朝の夢見

僕は女で私は男だった。お互いセックスしてた。

女であることとはどういうことだろう、男であることとはどういうことだろう?

 

女、男っていうのは二次性質であって、実在の本質ではないと思う。

『人間』という存在に便宜上つけられただけのノミナルな概念だと思う。

この性別っていうクソみたいな概念のせいで色々悩んでいる。

 

自分の中にアニマ(女性像)・アニムス(男性像)が存在するのは自覚している。

(これも自覚できるだけ一種の精神分裂なのかな?)

ユングは青年はそのアニマ、アニムスを抑圧することで性別を確定すると言っていたけど、僕にはそれが出来ていない。自我領域に存在する2つのエレメントとして『分析する私』が分析してしまう。だから一人称もぐるぐる混乱するし、自分が男性か女性かをはっきり述べることは出来ない。

性差、そして性欲。不可避なる欲望。

 

Q. 誠実な愛とは欲望から開放された愛なのだろうか?

未分析のモヤッとした苦しみから起因する、自己顕示欲や承認欲を無限に求めるような神経症的な欲望はもちろん誠実とは程遠いと思う。問題は純粋な性欲、これは誠実な愛と相反するだろうか?

セックスを嫌うひとは結構多い。セックスの下手さで嫌われやしないかと心配する人、過去の恋愛にトラウマのあるひと、自身/相手の欲望と相まみえるのが嫌なひと、理由は人それぞれだけど。

この点においてキリスト教アガペー(神の愛)とエロース(性の愛)を区別する。

「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。」

(コリント第一 13:4‐7)

要するにアガペーは無限の存在である神だけが行える無償・無限のトップダウン型の愛であり、エロースは憧れ、欲望のような見返りを求める愛だと。

 

で、結局どうすればいいのかということだけど、導き出されるのは2つの選択肢

1,神にはなれないということを受け入れて生きていく

無償の愛は無理だけれど、自分の見返りや欲望にある程度客観的に生きていくこと。

自分のあり方は変えないけれど、そこは諦める(Surrender)。

2,生命、欲望(リビドー)を捨て去って、無限の愛を体現すること。

それはつまり神になるということ。論理法則を超えて空の先に行くということ。

意味するところは死しかないが。

 

あしたは相互理解について書こうかな