この世界に確かなものはひとつもない。

真実は蓋然性に過ぎない、因果もまた斉一性でしかない。

強い信念も時とともに薄れ、価値観もまた移り変わる。

あれだけ強く感じる痛みや倦怠感も、傷が癒えれば収まっていく。

思い出はいずれ消えてしまい、新たな「うつろ」が上書きされる。

 

偽物と本物の違いもまた、存在しない。

偽物のブランド品を胸を張って身につける人間を軽蔑するけれど、

自分の記憶も誇りも発言も、偽物と本物の区別はついていない。

どちらかといえば、美しいまがい物のほうが、埃を被った本物より魅力的だ。

 

もったりと重いようで薄い、ファントム・グレーの「うつろ」が

ひとつ、またひとつと自分の感情や信念に覆い被さるような、

言い知れぬ不快感をおぼえながら、この四年間を過ごしてきた。

 

大切な友人が言っていた、ピンク色や紫がかった薄靄は確かに存在しない。

だが、それがかかっていた生活もまた、確かなものでもない。

「かかっている」と認識するわたしもまた、確かとは言えない。

フェイクを真実に変える情熱を(あるいは盲信を)「夢」と呼ぶのなら、

わたしはその夢を持たない。

こうしてまたひとつ、疑いという「うつろ」で上書きされてしまう。

 

疑い。

わたしは、全てにおいて疑ってかかる人間だ。

疑いとはひとつの美徳だと思っていた。

証拠不十分なものを盲信せず、理由と根拠を徹底的に調べ上げ、

不明なものは判断保留にするか、「無意味」と切り捨てていた。

 

「実は、これも無意味なことなのか」と諦めてしまうとき、

自分の心に「うつろ」がひとつ浮かんで、大切な場所を占めてしまう。

恋愛 夢 情熱 科学 生活 ...

普通の人々がいそしむようなタイセツな心の場所。

そこには大きな水泡のような「うつろ」が占めている。

浮かんだ「うつろ」は少しづつ大きくなって、癌のように浸潤していく。

 

癌は悪性新生物って別名がある。

この「うつろ」という癌が広がれば広がるほど、

わたしの心に新たな人格が割れ砕けて生まれ落ちる。

 

それでもまだ生き続ける理由はなんだろう。

燻ってはいるが、まだ暗い情熱の蝋燭は消えていない。

自分を構成するいかなるものをも知らなければ、という根源的な探究心だろうか。

自分が生まれたレゾン・デートルを知らなければ、という実存的な探究心だろうか。

同じ苦しみを抱える人間と出会うためだろうか。

茫漠たる砂漠を歩くための。

 

まだ諦めはしない。

もう少し頑張れるはずだ。

これを読む誰かにも

その心のともしびをもう少しだけ、信じて欲しい。

 

 

 

ピアノの音

ピアノの音が好き

ピアノの音はとても美しく物悲しい

誰も訪れないウェブサイトを尋ねる時のように

人は孤独から逃げられないことをはっきりとわからせてくれる

 

自分の感覚も肉体もないまま、ただ意識だけが暗い棺桶のなかに閉じ込められている

ふと、人間の本質とはそういうものだと思ったりする

そうした棺桶がきっと人の数だけあって

でもその闇の中では生きていけないから、人は自分に麻酔をかける

夢を見る

 

人と繋がれること

愛し、愛されているということ

社会的な成功を手に入れること

前に向かって歩いていること

自分の存在意義があるということ

自分が不幸だということ

自分が幸福だということ

 

それら全ては永遠の孤独の中に眠る”私”の思い込みだろう

アドラーが言うように、自己卑下や猜疑心も思い込みというのなら

こうしたプラスの感情も感覚もまた思い込みでしかないのだろう

 

虚無主義はどうしても乗り越えられない

望みも期待も罪である

何を望んでも、期待をしてもそれは報われない

世界は自分の世界であり、人は人の世界を生きているので

世界にも他人にも自分の理想像を押し付けているだけ

 

でも

もしもその棺の中に、優しいピアノの音が流れていればなぁと

また期待してしまうし望んでしまう

結局は諦めきれないのだろう

ほとんどを切り離したと思っていても

キャンバスに画用紙を貼り付けているピンを外せない

 

 

なりたい

「飄々とした」とか

「超然とした」みたいな言葉が好き。

なにも固執せず、誇らず、怒らない

落胆したり、取り乱したりしない

目に見えることよりも

目に見えないことを求めていたい。

本物を見極める審美眼。

それを支えるための知識も。

惑わされないための思考もほしい。

 

諦めたように憂う顔をする自分

アンテナ張るのに疲れてしまったけど

それでも目を開いて生きていきたい

フクロウのように俯瞰する羽根を持って

夕暮れの空を飛ぶように

 

でも自嘲気味に笑う人になりたいな

だって淡い希望は消えていないから

まだ燃え尽きていない火があるなら

笑いながら「もう一度」と言おう

 

生きる上で引っかかる哲学的5つの壁

自分なりに生きるうえでどうしても超えられない5つの問題をまとめたので書く

 

  1. 懐疑論

    「この世界は実は全部ウソだったり妄想だったりするかもしれない」という疑問を懐疑論といって、この世に絶対に正しいものということが無い(のかもしれない)ということを表している。水槽の中の脳というお話だったり(ググってくれ)、マトリックストータル・リコールみたいな映画だったりでよく言及されている。

    自分が見ているリンゴが本当にリンゴかどうかはわからない(実は脳を乗っ取られてブドウがリンゴに見えているかもしれない)し、そもそも「自分が見ている」という事実すら「自分が見ているという錯覚をしている」可能性もある。

    言葉も同じことが言えてしまう。「元アメリカ大統領バラクオバマは男である」という文章の正しさは、実際にバラク・オバマという人が男であるかどうか確かめればいい。つまり「AはBである」という言葉が正しいか間違いかは、実際の世界において”AがBであること”と照らし合わせればわかる。
    だがしかし、そもそも照らし合わせる行為が”人”にしか(もっと言えば自分にしか)できないのだから、言葉の正しさの判断は結局さっき言ったみたいな「違うかもしれない」懐疑に陥ってしまう。

    (哲学的な話としては「妻は既婚者である」「馬は動物である」みたいなAがAであるためにBの性質を持っていなければならない言葉を「分析的命題」として疑いようのない事実だと、論理実証主義と呼ばれる人たちは主張したが、これは③に大きく関わるクワインという哲学者が『経験主義の2つのドグマ』という本で明確に否定している。)

    結局のところこの懐疑論を唯一超えられるのは「我思う、故に我あり」という古典的な文句しかない。これは中世の哲学者デカルトの言葉で、「これは本当に存在するだろーか?」と疑っている『疑っている自分の意識』は疑いなく存在するということだ。

    だがこの問題はそのまま問題2に直結してしまう。

     

  2. 独我論

    「この世界に人間は私だけしか居ないんじゃないか?」という疑問のことを独我論と呼ぶ。懐疑論を突き詰めた結果のひとつだといえる。

    独我論には大きく分けて3つの種類がある。

     ひとつは「世界には私しか居ない」という『存在論独我論』であり、これが最も一般的な独我論だ。”他人の心”が存在するかわからないという現代の認知科学における大きな壁「意識のハード・プロブレム」(これもググってください)に大きく関係していて、私は心を持っているが、コンピュータは人間の心を持たない。しかしそれならなぜ他人は心を持っていると言えるのか?という疑問が根底にある。

    このタイプの独我論は「世界」と「私」を区別しているところが特徴だ。つまり、もともと客観的実在として世界があり、その中に私が居て、他の「NPC」か「他人」かわからない人々が暮らしているという考え方だ。MMOのオンラインゲームに近い。

     ふたつは「私が認識するものが世界である」という『認識論的独我論』であり、やや特殊な独我論である。簡単に言えば『私が認識しているものだけが世界であって、知らないものや他人の認識など、私が認識しえないものは世界ではない』という考え方だ。

    このタイプの独我論存在論独我論とは対照的に「世界」の実在を否定する。というより「世界」それ自体が「私の認識」なのであり、「私の認識」がそのまま実在の「世界」なのである。

    (「認識」を「私」というシステムが処理をする、という意味としての「私(という統覚)」は存在しないのだ。)

    「世界は私の世界である」論理哲学論考 5.641

     みっつめは「私的言語的独我論」なのだが、これを説明するのは哲学的に非常に踏み込んだ話になるので簡単にだけ書こう。

    「現象がクオリアとして質感を持って現れるためにそのクオリアが私的言語とならねばならず、その私的言語性こそが世界性を担保するものであり、客観的世界も思考する私の意識もどうでもいい」という考え方だ。

    なんのこっちゃ。

  3. 決定不全性テーゼ

    「観察やデータによっては、そこから帰納できる対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない」ということを決定不全性テーゼと呼ぶ。(別名デュエムクワインテーゼとも言う。カッコイイし日常生活で使いたい)

    一見なんのこっちゃと思うが、例えば月が空で登り沈み、満ち欠けしたりすることの観察から「月は地球のまわりを回っている」「地球は月のまわりを回っている」という2つの理論が考え出せる。

    月が地球の衛星だっていうことを知っている私たちは「なんでだよ、後者は明らかに間違いだ」って言えるが、なぜ言えるのだろうか。

    後者が間違いであるデータを提示したにしても、「地球が月の衛星である理論」を頑なに信じる人は「いや、こっちの理論のここが間違ってただけで地球が月の衛星である事実は変わらない!」と言うだろう。

    逆にも同じことが言えてしまい、我々が仮に「月が地球の衛星である理論」の間違いの証拠を提示されても、「いや、それはお前の観察が間違ってるだけ」「うちらのここが間違ってただけで、月が地球の衛星である事実は変わらない!」と主張する。

    結果として1つの現象から2つの理論が導き出せてしまい、その「正しさ」は「どちらの理論を信奉している人が多いか」で決まってしまう。これの一番メジャーな例が地球温暖化についての議論だろう。

  4. 規則のパラドックス
    「いかなる規則にも、その規則を正しく実行する、ということができない」ということを規則のパラドックスと言う。
    我々は常になにかのルールに従って生きているはずであるのに、実は正しくルールに従うことが原理的に出来ないということとはどういうことか。
    仮に数学の知識がない小さい子に、足し算を教えるとする。
    まず1+1=2,2+2=4、3+3=6、4+4=8のように基礎的な計算を見せて、「じゃあ、今教えた通りにやってごらん」と言う。その子は「5+5=10,4+3=7,6+9=15」と規則通りに計算をしていくが、「じゃあ26+12は?」と聞いたときに「26+12=5」と答えてしまう。
    先生は「違うよ、どうしてそうなるの?」と聞くが、彼は自分が間違っていることをわからない。なぜなら彼が教わった足し算から導いたルールは一般的な足し算ではなく、「x+y≦37のときは一般的足し算を、x+y>37のときは無条件で答えが5になる」という独自の謎足し算だったのだ。
    何度教えても彼はその独自の謎足し算が当たり前(哲学用語だと概念枠を持っているという)だと感じているため、そこには相互理解が一切生まれない。
    一般化すると「与えられた規則Aに対して、一義的にその正しさを保証するような行為A'(ルールに沿った行為)は不可能である」ということだ。
    つまりルールに従うということは、二者間の相互交流のなかで”おたがいがルールに則っている”という信念のもと実践を積み重ねていくだけ(解釈に次ぐ解釈)にすぎない。
    「我々のパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから。(中略)ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行なっているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、我々を少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、我々は、規則の解釈ではなく、応用の場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現われてくるような、規則の把握のしかたが存在することを示すのである。」(哲学探究、Pp.162-163)
  5. 相対主義
    「意味や価値というのは各個人の価値観によって異なるので、唯一絶対の価値や意味なんてものは存在しない」という考えを相対主義という。
    もっと簡単に言えば「絶対的に正しいことなんて存在しない」ということ。
    このトピックはメチャクチャ長くなるので別記事にします。
    問題提起だけしておくと「じゃあ相対主義は絶対に正しいか?」という疑問。

 

 

愛と性欲

今朝の夢見

僕は女で私は男だった。お互いセックスしてた。

女であることとはどういうことだろう、男であることとはどういうことだろう?

 

女、男っていうのは二次性質であって、実在の本質ではないと思う。

『人間』という存在に便宜上つけられただけのノミナルな概念だと思う。

この性別っていうクソみたいな概念のせいで色々悩んでいる。

 

自分の中にアニマ(女性像)・アニムス(男性像)が存在するのは自覚している。

(これも自覚できるだけ一種の精神分裂なのかな?)

ユングは青年はそのアニマ、アニムスを抑圧することで性別を確定すると言っていたけど、僕にはそれが出来ていない。自我領域に存在する2つのエレメントとして『分析する私』が分析してしまう。だから一人称もぐるぐる混乱するし、自分が男性か女性かをはっきり述べることは出来ない。

性差、そして性欲。不可避なる欲望。

 

Q. 誠実な愛とは欲望から開放された愛なのだろうか?

未分析のモヤッとした苦しみから起因する、自己顕示欲や承認欲を無限に求めるような神経症的な欲望はもちろん誠実とは程遠いと思う。問題は純粋な性欲、これは誠実な愛と相反するだろうか?

セックスを嫌うひとは結構多い。セックスの下手さで嫌われやしないかと心配する人、過去の恋愛にトラウマのあるひと、自身/相手の欲望と相まみえるのが嫌なひと、理由は人それぞれだけど。

この点においてキリスト教アガペー(神の愛)とエロース(性の愛)を区別する。

「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。」

(コリント第一 13:4‐7)

要するにアガペーは無限の存在である神だけが行える無償・無限のトップダウン型の愛であり、エロースは憧れ、欲望のような見返りを求める愛だと。

 

で、結局どうすればいいのかということだけど、導き出されるのは2つの選択肢

1,神にはなれないということを受け入れて生きていく

無償の愛は無理だけれど、自分の見返りや欲望にある程度客観的に生きていくこと。

自分のあり方は変えないけれど、そこは諦める(Surrender)。

2,生命、欲望(リビドー)を捨て去って、無限の愛を体現すること。

それはつまり神になるということ。論理法則を超えて空の先に行くということ。

意味するところは死しかないが。

 

あしたは相互理解について書こうかな

エバーグリーン、浮かんだ言葉

1.

優しさ、誠実さ、信念。愛。

誠実でありたい、全てにおいて。

1.1

誠実であるということは真面目であるということ。

自分より相手のことを考え、無償の愛を与えること。

誠実な優しさっていうのは見返りを求めてはいけない。

1.2

神様になりたい。

それは全知全能や世界征服とかの話じゃなくて、見返りを求めずに世界を愛したいから。

1.2.1

どうしても優しさの努力の中には「相手の笑顔」「ありがとうの言葉」のような見返りを求めてしまう。それは無償の愛とは言えないと思う。だけど私は神さまにはなり切れないから、どうしても感謝や見返りを求めてしまう。自己嫌悪のひとつ。

1.3

どうしても優しさや愛には「優しくしている、愛している自分」に対するナルシシズムが現れてしまう。自分の存在意義が見いだせないから、利他的に生きる自分に対しての自己陶酔で心を酔わす。

1.3.1

自分を愛する方法を教わらなかった私たちはどうやって他人を愛するだろう。

自分すら満たせていない未完成な愛では他人に何を与えられるだろう。

自己理解。他者理解。理解とはなんだろう。愛するということとは。

1.4

愛という論理の限界の先にあるものを論じるにあたって、「The Art of Loving」は、本嫌いな私が目を見張るほど素晴らしい本だ。僕が考えていることと類似しているところが何点かあるので紹介する。

1.4.1

「愛しあっている」二人が、ほかの人には眼もくれないということはよくある。じつは、彼らの愛は利己主義が二倍になったものにすぎない。

彼らはたがいに相手に自分を同一化し、一人を二人に増やすことによって孤立の問題を解決しようとする。彼らが味わう一体感は錯覚にすぎないのだ。

一般的な”真実の愛”というのはロミオとジュリエットのような、お互いをお互いの全てとして、完全に合一化し他の世界には目を向けないまま愛し合う、というものだが。

しかしそれを単なるエゴイズムの拡大でしかないと批判した。

一人の人を本当に愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

その人に対する真実の愛とは、相手を通して世界のすべてを愛するということ。世界のすべてというのは、すなわち自分自身であるゆえに、それは自分自身を愛するということだと論じる。

たしかに、僕の好きな人も嫌いな人も、パソコンもペットの動物もすべてが『私の世界』にあらわれている現象にすぎない。

1.4.1.1

ただコレに関してはどっちが正解なのかわからない。

『相手もまた”私の世界”の中にいる現象にすぎないから、それを愛するということは”私の世界”を愛するということと同義だ』という命題と

『相手は”私の世界”からは独立である。完全に別の世界を持っているのだから、相手を愛するということは”相手の世界”だけを愛することだ』という命題はどちらも説得力がある。

前者ならば相手を誠実に愛するということは、自分を愛せていなければならないが。

後者ならば自分を愛せなくともお互いが完全に相手の世界を愛せれば真実の愛となる。

いずれにせよどちらもハードルが高いのだが。

1.4.2

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解に根ざしている。

もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

人を、世界を愛したい。でもありのままの私を愛せない。だから優しく神様の真似事をする。この世で絶対的に存在価値が認められているのは神様だけだから、

結局はそこなんだろう。自分を愛してほしい。自分にも、他人にも。

だから私には恋愛ができない。もちろんいくらでも虚飾で薄い恋愛の真似事なんか幾らでもできるし、そんな経験だってしてきた。

「愛してる」と言えないのだ。自分を愛せないから。

 

1.5

神経症的な愛を生む基本的条件は、「恋人たち」の一方あるいは両方が、親の像への執着を捨てきれず、かつて父親あるいは母親に向けていた感情・期待・恐れを、大人になってから、愛する人のうえに転移することである。

もちろん人間の人格形成を親のせいにするつもりはない。けれども僕の身の回りにはあまり親との人間関係がうまく行っていない人が多い。

親との愛情に問題がある人間は「愛」に対してやはりというか普通の人とは態度が違う。

ひたすら虚飾でも愛のレプリカを求め続けるタイプ。セックス依存。

愛の存在に否定的になり、自分も世界も他人も愛せなくなる。神経症

そして愛について徹底的に考えて、疲れ果ててしまうタイプ。哲学者。

フロイト流の精神分析がただしいかはさておき、この「転移」という問題は非常に大切だと思う。親や先生などに抱いていた、あるいは抱かされていた気持ちを恋人に無意識に刷り込んでしまう……

誠実な愛とは程遠い。

1.6

ただ、どんな本と向き合っても、どんなにYoutubeで動画を見ても、どんなに心理学の勉強をしても人の心はわからないし、ましてや自分を愛することなどできそうにもない。だから人と向き合わないとどうしてもその解決の糸口は見つからない。

同時に人を傷つけるのがすごく怖い。傷つくのが怖いのももちろんだが、それ以上に傷つけてしまった跡を見てしまうのが。乗り越えなければいけない壁。

誠実であるということ、をもう一度整理する。

誠実な愛とは

:親や先生などに対する情念を転移していないこと。

:客観的であること。愛する自分を愛するというナルシシズムの存在に気付くこと。

:信念を持つということ。信念に対して嘘をつかないこと。

ああ、信念についてまだ何も書いていなかった。

2.1

信念。

信念というのはその人を信じるにあたって絶対的に必須のものだと思う。

少なくとも僕は信念のない人間を好きにはならないし、友達にもなれない。

(僕みたいな考えを持つ人にとって友達っていうのはすっごくハードルが高い。)

信じるということ。

言い換えれば、その人の生きる信念に対しての信頼、だろうか。

『愛していると言えない』につづいて『信じることが出来ない』という大病が、ここにはある。

残念だが95%の人は信念がない。

信念を持っている、と声高に主張する人間に限って、その信念は実は簡単に揺らぐし、そもそも『お金持ちになる』『素敵なお嫁さんになる』程度のレベルの事が多い。

信念は目標や夢じゃない。

信念というのはその条項に従って絶対に揺らがず、それに反するくらいなら死を選ぶといえるまでの理想主義者にだけ持てる、強力な意志の炎だ。

僕の信念はうまく言語化できないが、あえていうなら『誠実』『疑いつづけること』だろうか。

2.2

僕は信じることが出来ない。他人も、ものも、目の前の現象も、神も、全てだ。

仮に『これは絶対に存在するだろう』というものを想像してみてみよう

目の前にあるスマートフォンやパソコンは本当に実在するか?

目に映る現象は全て網膜に映る情報にすぎない

脳の働きもまた電子パルス信号にすぎない

哲学的ゾンビ中国語の部屋のような思考実験が示すとおり、他人の心があるかどうかはわからない。

ましてや神は言わずもがな。

何百年も前にデカルトが言ったとおり、自分が絶対的に実在を肯定できるのは『自分』だけなのだ

一度世界を方法的懐疑の目線で見てしまうと、実は永遠の暗闇に『自分』がひとり立っていることに気づくだろう。

2.2.1

ものごと(現象)を信じるということは、(哲学用語だが)そのものごと(現象)それ自体がイデア的実在であるということを信じる、ということだ。

もちろんそんなものは理性的に考えてありえない。『コレは本当にコレだろうか』という根源的な疑いが排除されるものは、それこそコギトしかありえない。

だから信じる、というのはひたすら疑い続けるということなのだ。

ただし誤解しないでほしいのは、この『疑い』というのは否定的な疑いではないという点だ

2.3

相手を盲信する(全肯定する)ということは誠実であることとは違う。違うどころか真逆かもしれない。

その相手を愛し、信じているならばこそ必ずある程度客観的にならなきゃいけない。

そう、疑いの対象は常に自分だ。

『自分は本当に誠実に愛せているか』ということを永遠に疑い続けること。それが真の誠実の要素だと考える。

もちろん相手を愛するということは相手を全肯定することじゃない。対立することだってかならずある。それはとても健全(Sound)。

誠実であることはとっても、とっても難しく、また厳しい。

常に自らを客観視し(できるかどうかはともかく)、信念と照らし合わせ生きるのはやがて精神の分裂を招く。

『行動する自分』と『評価する自分』が別れてしまうから。

客観的であることによる精神分裂。

3.1

往々にして私たちみたいな”マジメな”考えを持つ人間はこうした”誠実”への理想と現実のギャップに苦しむ。

95%のひとは信念なんか持っちゃいない。95%のひとがつくりあげるシャカイは信念がない、あるいは『金を稼ぎ、学歴を手に入れ、地位、富、名声、セックス、かりそめ承認欲』みたいなくっだら無い信念で満ち満ちている。

だから『外行きの自分』ペルソナを新たに作り上げ、社会生活を営む間はその外行きの自分に色々任せ、真の自分と切り離してうまくやっていくことを覚える。鍛錬を詰めば『外行きペルソナ』が自動的に応答して社会生活を無思考でやっていくこともできる。

問題はそこでまた分裂が起きることだろう。

『外行きの自分』『行動する自分』『評価する自分』の3つの魂がここに成立する。

客観的であることはこうした人格分裂による弊害を引き起こす。難しい。

 

4.1

言葉を知るということ。ボキャブラリ。

5.1

相手を理解することということ。