生きる上で引っかかる哲学的5つの壁

自分なりに生きるうえでどうしても超えられない5つの問題をまとめたので書く

 

  1. 懐疑論

    「この世界は実は全部ウソだったり妄想だったりするかもしれない」という疑問を懐疑論といって、この世に絶対に正しいものということが無い(のかもしれない)ということを表している。水槽の中の脳というお話だったり(ググってくれ)、マトリックストータル・リコールみたいな映画だったりでよく言及されている。

    自分が見ているリンゴが本当にリンゴかどうかはわからない(実は脳を乗っ取られてブドウがリンゴに見えているかもしれない)し、そもそも「自分が見ている」という事実すら「自分が見ているという錯覚をしている」可能性もある。

    言葉も同じことが言えてしまう。「元アメリカ大統領バラクオバマは男である」という文章の正しさは、実際にバラク・オバマという人が男であるかどうか確かめればいい。つまり「AはBである」という言葉が正しいか間違いかは、実際の世界において”AがBであること”と照らし合わせればわかる。
    だがしかし、そもそも照らし合わせる行為が”人”にしか(もっと言えば自分にしか)できないのだから、言葉の正しさの判断は結局さっき言ったみたいな「違うかもしれない」懐疑に陥ってしまう。

    (哲学的な話としては「妻は既婚者である」「馬は動物である」みたいなAがAであるためにBの性質を持っていなければならない言葉を「分析的命題」として疑いようのない事実だと、論理実証主義と呼ばれる人たちは主張したが、これは③に大きく関わるクワインという哲学者が『経験主義の2つのドグマ』という本で明確に否定している。)

    結局のところこの懐疑論を唯一超えられるのは「我思う、故に我あり」という古典的な文句しかない。これは中世の哲学者デカルトの言葉で、「これは本当に存在するだろーか?」と疑っている『疑っている自分の意識』は疑いなく存在するということだ。

    だがこの問題はそのまま問題2に直結してしまう。

     

  2. 独我論

    「この世界に人間は私だけしか居ないんじゃないか?」という疑問のことを独我論と呼ぶ。懐疑論を突き詰めた結果のひとつだといえる。

    独我論には大きく分けて3つの種類がある。

     ひとつは「世界には私しか居ない」という『存在論独我論』であり、これが最も一般的な独我論だ。”他人の心”が存在するかわからないという現代の認知科学における大きな壁「意識のハード・プロブレム」(これもググってください)に大きく関係していて、私は心を持っているが、コンピュータは人間の心を持たない。しかしそれならなぜ他人は心を持っていると言えるのか?という疑問が根底にある。

    このタイプの独我論は「世界」と「私」を区別しているところが特徴だ。つまり、もともと客観的実在として世界があり、その中に私が居て、他の「NPC」か「他人」かわからない人々が暮らしているという考え方だ。MMOのオンラインゲームに近い。

     ふたつは「私が認識するものが世界である」という『認識論的独我論』であり、やや特殊な独我論である。簡単に言えば『私が認識しているものだけが世界であって、知らないものや他人の認識など、私が認識しえないものは世界ではない』という考え方だ。

    このタイプの独我論存在論独我論とは対照的に「世界」の実在を否定する。というより「世界」それ自体が「私の認識」なのであり、「私の認識」がそのまま実在の「世界」なのである。

    (「認識」を「私」というシステムが処理をする、という意味としての「私(という統覚)」は存在しないのだ。)

    「世界は私の世界である」論理哲学論考 5.641

     みっつめは「私的言語的独我論」なのだが、これを説明するのは哲学的に非常に踏み込んだ話になるので簡単にだけ書こう。

    「現象がクオリアとして質感を持って現れるためにそのクオリアが私的言語とならねばならず、その私的言語性こそが世界性を担保するものであり、客観的世界も思考する私の意識もどうでもいい」という考え方だ。

    なんのこっちゃ。

  3. 決定不全性テーゼ

    「観察やデータによっては、そこから帰納できる対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない」ということを決定不全性テーゼと呼ぶ。(別名デュエムクワインテーゼとも言う。カッコイイし日常生活で使いたい)

    一見なんのこっちゃと思うが、例えば月が空で登り沈み、満ち欠けしたりすることの観察から「月は地球のまわりを回っている」「地球は月のまわりを回っている」という2つの理論が考え出せる。

    月が地球の衛星だっていうことを知っている私たちは「なんでだよ、後者は明らかに間違いだ」って言えるが、なぜ言えるのだろうか。

    後者が間違いであるデータを提示したにしても、「地球が月の衛星である理論」を頑なに信じる人は「いや、こっちの理論のここが間違ってただけで地球が月の衛星である事実は変わらない!」と言うだろう。

    逆にも同じことが言えてしまい、我々が仮に「月が地球の衛星である理論」の間違いの証拠を提示されても、「いや、それはお前の観察が間違ってるだけ」「うちらのここが間違ってただけで、月が地球の衛星である事実は変わらない!」と主張する。

    結果として1つの現象から2つの理論が導き出せてしまい、その「正しさ」は「どちらの理論を信奉している人が多いか」で決まってしまう。これの一番メジャーな例が地球温暖化についての議論だろう。

  4. 規則のパラドックス
    「いかなる規則にも、その規則を正しく実行する、ということができない」ということを規則のパラドックスと言う。
    我々は常になにかのルールに従って生きているはずであるのに、実は正しくルールに従うことが原理的に出来ないということとはどういうことか。
    仮に数学の知識がない小さい子に、足し算を教えるとする。
    まず1+1=2,2+2=4、3+3=6、4+4=8のように基礎的な計算を見せて、「じゃあ、今教えた通りにやってごらん」と言う。その子は「5+5=10,4+3=7,6+9=15」と規則通りに計算をしていくが、「じゃあ26+12は?」と聞いたときに「26+12=5」と答えてしまう。
    先生は「違うよ、どうしてそうなるの?」と聞くが、彼は自分が間違っていることをわからない。なぜなら彼が教わった足し算から導いたルールは一般的な足し算ではなく、「x+y≦37のときは一般的足し算を、x+y>37のときは無条件で答えが5になる」という独自の謎足し算だったのだ。
    何度教えても彼はその独自の謎足し算が当たり前(哲学用語だと概念枠を持っているという)だと感じているため、そこには相互理解が一切生まれない。
    一般化すると「与えられた規則Aに対して、一義的にその正しさを保証するような行為A'(ルールに沿った行為)は不可能である」ということだ。
    つまりルールに従うということは、二者間の相互交流のなかで”おたがいがルールに則っている”という信念のもと実践を積み重ねていくだけ(解釈に次ぐ解釈)にすぎない。
    「我々のパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから。(中略)ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行なっているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、我々を少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、我々は、規則の解釈ではなく、応用の場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現われてくるような、規則の把握のしかたが存在することを示すのである。」(哲学探究、Pp.162-163)
  5. 相対主義
    「意味や価値というのは各個人の価値観によって異なるので、唯一絶対の価値や意味なんてものは存在しない」という考えを相対主義という。
    もっと簡単に言えば「絶対的に正しいことなんて存在しない」ということ。
    このトピックはメチャクチャ長くなるので別記事にします。
    問題提起だけしておくと「じゃあ相対主義は絶対に正しいか?」という疑問。